dgwingtong's blog

世の中について書きます

社会はどうやって進化するか

何も無い所から始める。それは大変な事だ。それでは人間の叡智が引き継げない、車輪の再発明だ、労力の無駄だ、ということで教育というものが行われるわけです。

で、これは基礎が正しいという前提で進んでいく。そして最先端まで行ったらその先を繋げてくれということ。こうやって進化は進むと。もちろん最先端まで行ったら、なんか基礎に矛盾が生じる事象が出てきて根底からひっくり返るという発見も期待して良いだろう。

ここまでは専門領域の話だ。で、専門領域というのは一般の理解があって予算が付けられたり配分されるものだから政治家や一般市民にも分かりやすく説明する必要がある。全く荒唐無稽な研究やクレイジーなマッドサイエンスに税金が使われないように監視する必要がある。まぁ科学版文民統制みたいなもの。

で、一般市民の専門領域の理解というのが問題になるわけだが、現代は科学領域の優先度が非常に高い状況になっている。これは成果があって社会がそれを利用して利益を得て生存しているからである。

そうすると科学というのが正しいもの、絶対守らなければならない掟のような性格を帯びてくるのはやむを得ないのだろうか。少なくても一般市民の間にそういった無謬性、約束事というのが無意識の間に生成されてしまうものである。

で、ここで美味しんぼ、で話題になった科学的に明らかに間違っていることは公言すべきでないという今話題のトピックに結びつくのですが。

現状では正しいと思われることは守って規範に忠実に生きるべき、いや、科学だって根底からひっくり返る可能性もあるのだから、常に現状の知見を超えた可能性も考慮して判断保留すべきという考えもある。

この時、どこまで範囲を広げて公開すべきかという問題。あんまりラジカルな考えを広範囲に広げても社会はパニックやヒステリーを起こすだけ。

つまり「美味しんぼ」騒動とは公開の範囲の問題とも言えそうである。ある特定の人間で議論するのは良いが全市民が議論するほどのものではないと。

ま、そう割り切れるものでは無いと思うが。公開の範囲の問題はスノーデンの話題とも関係することなので難しい問題を抱えているが、社会は整然と整理されたものではないのでギャーギャー騒ぐのは致し方無い。